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光の行方を。

何か一つ成し遂げたらそこから変わっていくんだろう

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私の3月11日。

あの日、私が見たこと、見なかったこと、考えたこと、考えられなかったこと。
記憶のあるうちに書いておこうと思います。

私の体験は、新聞やテレビでは到底取り上げらない、津波の端っこです。
被災者を枠でくくったら、ライン上です。すごく地味です。
でもこれが、私の現実でした。
こんな小さな現実が、何万通りもある、それが今回の震災だと思います。


私の住んでいるところ。
  岩手県宮古市。
  海から直線で1.5kmほど。
  家から海は見えない。

被災状況。
 家族・親戚
  全員無事

 自宅
  床上浸水。道路からの水位1m。
  半壊。
 会社(自営業のような事務所)
  自宅の2件隣。ほぼ同様。
 実家
  床上浸水。道路からの水位1.5m。
  大規模半壊。
  

午後2時46分。
私は、自宅の2件隣にある事務所にいました。
事務所にいたのは私を含めスタッフ7名。わんこ1匹。
前日にもやや強い地震があり、もともと地震が多い地域なので、最初にぐらっと来たときはみな、おぉーまた揺れてるーといった雰囲気でした。
直下型ではなくぐらぐらと横揺れでした。

少しして揺れがおさまり、結構揺れたねーなどと一言くらい交わした後、携帯電話の緊急地震速報が鳴り響きました。
地震速報なのに遅れて発信された?と思った瞬間、もう一度揺れが始まりました。
立っているのも難しいくらい、激しい横揺れです。
わんこを抱き上げ、駐車場に出ました。
停めてあった車が、道路に飛び出すのではないかと思うほど激しく前後に揺れ動いています。
いつまで続くのだろう、このまま止まらず全てが破壊されるのではないかと思うほど長く、本当に恐ろしかった。
わんこを抱いたまま駐車場に座り込み、ただただおさまるのを待ちました。
正確な時間は知らないけど、5分にも10分にも感じました。
これまで経験した地震は、ぐらっと大きく2,3秒揺れて後は前後に小さく余韻のように揺れるというものでしたが、このときは、その大きなぐらっが信じられないぐらい長く続いたのです。
この2回目の地震が、2時46分だったと思います。

電気は、揺れが始まってすぐ消えました。
防災無線から激しいサイレンの音がなり響き、津波に注意しろとか、分団員は水門を閉めるようにとか言っていたと思いますが、ほとんど覚えていません。
ただ、それが最後に聞いた防災無線でした。

その後も繰り返し大小の余震が続きました。
電気が止まったため、テレビが見られず震度がいくつだったのかもわかりませんでした。

仕事に行っていた旦那は、地震後10分くらいで戻ってきましたが、家族の安否の確認もそこそこにすぐに半纏を羽織り、分団に走りました。

事務所のスタッフが、自分の車のテレビをつけて短く叫びました。
「これ、なあど・・・?」
窓から顔突っ込み、見るとそこに映っていたのは、宮古湾の岸に建つ道の駅でした。
ちらっと見えたその映像の道の駅は、すでに水没し屋根しか見えませんでした。

その映像を見て、津波が来てるんだということはわかりました。
でもこの後どうなるのかということを想像できませんでした。
そこに映っていた映像と自分自身の身に起こることがつながらなかったのです。

とりあえず、自宅から徒歩3分ほどのところにある実家の様子を見に行きました。
実家の父は、昨年心筋梗塞を患い、あまり体力がありませんし、心臓に負担がかかるとあっというまに心不全を起し、生死をさまようことになります。
実家までの道中も激しい余震が起き、歩けなくなり一度立ち止まりました。
行ってみれば、父も母も怖かったーとは言いつつもどうってことなさそうで安心しました。
とりあえず、避難するんだったらうちに来てねーと私も呑気な言葉をかけ、そのまま引き返しました。
この時点であの映像をちらっと見ていたのにも関わらず全く緊張感がありません。

事務所に戻ると、自宅が近所の人はそれぞれ家へ戻り、残ったメンバーはクルマで暖を取ったり、裏の小学校へ避難してきた人と話したりしていました。
その中の誰かが、異変に気づきました。
「なにあれ?」
その指す方向を見ると、真っ黒な液体がじわじわと通りの前の家の間から出てきています。
音もなくただ忍び寄るようにじわじわとしみのように広がってくるのです。
それと同時ぐらいに分団長の声が、通りに響きわたりました。
「津波がきてっぞぉ、にげろぉ」

それを聞いてわたしの取った行動は、本当に馬鹿です。
自宅の自分の部屋に戻りました。
着替えるために・・・

制服を着ていたので、これから避難所に行くのにスカートじゃなにかと不便だなと。
それにもし避難所に泊まるようなことになったら、着替えとかいるんじゃない?などと考えたのです。
弁解のしようもないおバカです。
それほどに、考えられないような出来事だったのです。
海も見えない、距離もある、これまでの歴史でもそんな被害を受けたことはない地域。
今後起こることを想像にもしませんでした。

自宅の部屋に戻ると、タンスが転んでました。
は?
それがその時の正直な感想です。
え?これほど?
あんなに揺れて怖い思いをしたのに、事務所ではそれほど物が落ちたりしなかったので(落ちるようなものがなかったともいう)現実感に薄く、部屋の惨状に驚くばかりでした。
とりあえず着替えをすませ、パンツをもつべきか悩んだ末、持たずに(苦笑)念のためと大きなバックにタオルだけ入れて部屋を出ました。

家の外に出ると、前の道路が黒い川になっていました。
20cmほどあがっている歩道と同じだけの水です。
事務所の前をみるともう誰もいません。
避難誘導をしていた分団の半纏を着た旦那が、私に気づき、クルマ、クルマ逃がせっ!と叫びました。

クルマは道路の向かい側にある駐車場に停めてあります。
黒い川となった道路の向こうで、まだ駐車場の敷地は濡れていませんでした。
わたしは、ジーンズにスニーカー。
え?これでこの黒い川渡るの?まぢで?
黒い川は、色がおどろおどろしいだけでなく、ヘドロのような油のような悪臭までします。
クルマ、大丈夫そうじゃない?
そんな、くだらない心の葛藤があった数秒のうちに、黒い川は道路から溢れ歩道にじわりと染み出してきました。
波打ち際に寄せる波のようなスピードでした。
このとき、やっと津波が来ているという意味が理解できたように思います。

向かいの駐車場を見ると、クルマの下にもう黒い水がありました。
些細な葛藤をしていたほんの数秒の間にです。
もうダメだよ・・・諦めていいかな・・・
そう思った時、目の前を軽自動車が、黒い水しぶきをあげて走っていきました。
それを見た瞬間、よし!と決意が固まりました。
意をけして黒い川に足をいれ、クルマまで走ると思い切りエンジンをかけ、道路を逆走し、少し山手にある公共施設の駐車場まで行きました。

クルマを停めてほっと一息つくと、自分がひとりであることに気づきました。
携帯はもうすでにだいぶ前から、うんともすんとも言いません。
こんな状況下にひとりでいることの恐ろしさを感じました。
避難場所はわかっています。
そこに行けば、きっと会える。
もし会えなくても分団に行けば、旦那はいる。
大丈夫、大丈夫。
何度も自分に言い聞かせながら、避難場所に向かいました。

途中、一緒に事務所にいた伯母のクルマに会いました。
避難場所の小学校にも水がきたから、更に山手にクルマを持っていくところ、みんな学校にいるから、と。
みんなの居場所がわかったのは安心したけど、小学校にも水がきた?ありえないよ・・・と不安にもなりました。
学校は、自宅のすぐ裏だけど1mくらい高いのです。

学校への道中も、道路が低くなっているようなところは冠水していました。
土地が高くなっているところを回り道をしながら、学校に向かうと裏山のほうへと更に避難している最中の家族と会えました。

それから、2時間後。
小学校の校庭を半分濡らしたところで止まった津波は、ゆっくりと水が引き始めました。

実家の父も小学校に無事避難してきていたのですが、問題に気づきました。
父は、夜寝るときに加圧した酸素を肺に強制的に送らないと、無呼吸→心不全→生死を彷徨うというコンボを引き起こします。
それでこれまで、何度も緊急搬送されているのです。
加圧した酸素を送るにはそれようの機械と電気が必要です。
町中が水に浸かっている状態では、電気の早期の復旧など見込めないし、第一機械がある実家がどうなっているのか見に行くこともできません。

救急はどうなっているのか、相談してみようと分団に行きました。
そこにちょうど、県立病院の職員の方が来られました。
電話も無線も通じず、道路は渋滞したまま、緊急搬送も運ばれて来ない、街で何が起こっているか全くわからない、だから歩いて山をおりて状況を確認にきましたと。
それを聞いて愕然としました。

病院は、山の上にあります。もちろん無事です。
でも市内から病院へ通じる唯一の道路は、海沿いを通っています。
完全に水没しています。
そしてもう一本、お寺の坂(私有地)を登って山を越える道があります。
この坂へ通じる道は、自宅の前の道路です。
つまり、道路はすべて冠水し、市内から病院へ行く手段がなかったのです。

ただお寺の坂の入り口付近は水がきていません。
父は当然、山を徒歩で越える体力などありませんので、そのぽっかりと濡れていない区間にクルマを置いていた人を探し、借りました。
そして父を病院へ運び、今現在顔色もよくて大丈夫なんじゃないの?という医師と一悶着繰り広げながらも入院の手続きを取りました。

病院では、災害用の対策をとり、トリアージタグも準備していましたが、患者は地震発生から3時間たったその時間でもほとんど運び込まれていませんでした。
病院の駐車場には、救急車が2台停まったまま。
自家用車で運ばれてくる人がちらほらいるだけでした。

薄暗くなってきた中、自宅へ戻ると家の付近はすっかり水が引いていました。
家の中は、泥だらけでした。
事務所の2階は大広間になっていて、トイレも小さな台所もあるので、そこへ家族と帰れなかったスタッフで避難することにしました。

このときまだ水は出たのです。
水が出てよかったねーなんて呑気をいいながら。
冷静に考えれば、出るわけないんです。
電気が止まってるんですから、浄水場も電気を使っているはず。
その数時間後には、完全に止まりました。

このとき、まだ私たちは何が起きたのか、理解できていませんでした。
なんの情報もなく。連絡手段もなく。
ただ、どうやって食事をするか、どうやって暖をとるか。
それだけでした。

分団に炊き出しの手伝いに向かうため外に出ると
見えるのは分団の自家発電の小さな灯りのみ。

見上げた空は、見たこともないような恐ろしいほど美しい鮮明な星空でした。


翌朝、水のひいた街を歩き、言葉を失いました。
深い泥に塗られた街。
いたるところに船。
倒壊し道路に飛び出した木造家屋。
何台も折り重なった車。

地獄だ・・・

誰かがそう呟くのが聞こえました。
もう、それ以上の言葉はありません。


事務所のスタッフで一緒に避難していた方の、となりまちにあった自宅が、飼っていたわんこ共々、跡形もなくなくなったと聞いたのは、2日後でした。

3日後に水道が復旧しました。
10日後に電気が復旧しました。


復興の話はまた今度。



私の自宅が、あと100mも場所が違っていたら、私は死んでいたと思います。
そんな避難の仕方をしました。
津波に対する考えが甘かったのではといわれればその通りです。
クルマを逃がしたのも避難の時クルマを使わないうんぬんからすれば間違いかもしれません。

テレビで再三放送される生と死。
すべてが紙一重。
こうしていたら、ああしていたら、すべて結果論です。
誰が正しかったとか、誰が責めをおうべきとかは、ありません。

ただ、犠牲になられた方のご冥福を心よりお祈りし、生き残ったものの務めとし、街の復興のためここに住み続けたい。


これだけ多くの方が犠牲になられた中、私は親しい人を失わずにすみました。
住む家を失うこともありませんでした。
人や家を飲み込んだ激流の津波をみることもありませんでした。

それでも1週間以上、津波に流される夢を見続けました。
高熱を出しダウンしました。
今でも防災無線のサイレンの音をテレビで聞くだけで鳥肌が立ちます。

津波の真ん中ですべてを失った方々が、どんな想いでいるのかと思うと本当に胸が痛みます。


私は、これからもこの街で、家族と普通に今まで通り、
笑ったり、悩んだり、努力したり、ずるしたり
そうやって生きていきたいと思います。
それが、私の出来ることだからです。


みんなが特別でなくなることが、復興だと思うから。

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そしてしばらく放置したりします。
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